国技というもの
国技というもの
チョンマゲを結い、びんづけ油の匂いを振りまき、太刀をさす。大相撲は江戸の昔からそんな形で巡業し、土地土地のおあにいさんの世話で興行を続けてきた。タニマチがいて力士のメンドウも見てきた。国技とされ、強い横綱、大関は子どもたちのヒーローだった。
いまや、野球やサッカーをめざす少年は多いだろうが、関取をめざす若者は希少となった。それが今の番付にも反映される。
モンゴル勢を中心に国際技である。半数が外国人だ。かといって柔道のように国際技かというとそうでもない。柔道や空手のようには世界に広がってはいない。
相撲世界は今でも閉鎖社会だ。生まれ育ちを問わず強い者が、出世する。ギャンブルをする環境は整っている。麻薬や野球賭博は法律に触れる。犯罪である。が、微妙に併存してきたのも事実なのだ。
興行の裏には闇社会がつきものだ。世間的な常識をはみ出す素地はあるのだ。本来は河原乞食とされた先祖が卓越した技と力で国技、 神事と祀り上げられた。庭師の伝統も例外ではない。役者もそうだ。
大相撲秋場所が26日千秋楽を迎える。白鵬が優勝するのはまちがいない。外国人力士の興隆ぶりを見ていると、国技とはいえないな、という気持ちにはなる。土俵の上は女人禁制とか、砂かぶりに暴力団は入れない、入場禁止とかいろいろな制約はどこかへんである。
どのような集まりであろうと、みなそれぞれに利害や考えが異なるもの。国際社会のために何ができるのかを親方衆が真剣に考えているとは思えない。今の相撲道は考え方も理念としては優れたものである。 辺境のスポーツの限界は世界標準を準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできないということだ。大相撲興業をもうすこしゆるやかに見守らないといけないということだ。「大きな物語」が消えたのではないか。ために白鵬の連勝記録もそれほどの騒ぎにはならない。マスコミは土俵外の揉め事で騒ぎすぎる。ひそかに江戸時代が社会の片隅に棲息しているとおもしろがるおおらかさがほしい。 ( 2010/09/17 )
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