「横山大観展」
野間記念館開館十年「横山大観展」 大正の充実期の作品を観て
横山大観という画家を考える時、複雑な気持ちになる。明治・大正・昭和にわたって画壇に君臨した。天才ともてはやされた。一派や弟子も大勢いた。今もその名を知らぬ人はいないはず。「ああ富士山をたくさん描いた人」といった風に。
そしていざその絵を前にすると、今ではどうしたわけか迫ってくる感動が弱いのである。堅牢で実に上手な作品であることは認める。絵にははやり廃れがあるという好例なのか。マスコミや評論家が持ち上げないと忘れられてしまうとでもいうのだろうか。それとも時代遅れの感を抱いてしまうのは鑑賞者の眼不足のせいなのだろうか。
絵を前にすると作品そのものだけではなく様々な想念が浮かぶ。 横山大観は1868(明治元年)〜1958(昭和33年)という90年にわたる生涯。、画壇ばかりか社会的にも大きな影響力を持った人物である。
東京都文京区関口の講談社野間記念館で3月13日〜5月23日まで開館十周年記念と銘打たれ開館されているのが「横山大観展」である。大観の画業がもっとも充実した大正期の作品11点を中心に取り上げた。また大観と同時代に活躍した、下村観山、木村武山、安田鞍ゆき彦ら、日本美術院の画家たちの佳作も合わせて鑑賞できる。作品解説を援用しながら見て行く。
「松鶴図」1915(大正4)年、絹本着色・六曲一双。伝統的な画題を正面から取組んだ数少ない作品。左隻、右隻の上方に松の小枝が描かれ、そのもとに一羽ずつ鶴が配されている。金地屏風ののびやかな空間に、鶴が映える。
「千与四郎」1918(大正7)年、絹本着色・六曲一双。与四郎とは千利休の幼少期の名前。師匠から庭の掃除を命じられた与四郎。ところが庭には塵ひとつ落ちていない。
聡明な彼は、木々を揺り動かして葉を落とし、晩秋の庭に風情を添えた。そのような逸話を題材にした。緑青を基調とした庭木の中に、紅葉した葉や白い花弁花々が配され大観の華麗な色彩感覚がうかがえる。
「暁山雲」1923(大正12)年、絹本着色・一幅。大観ならではの富士の一作。暁に染まった雲海の彼方にどっしりとした姿態を現わしている。大観は、瞬時に千変万化する富士の姿をさまざまに描くことで、自然の摂理と自らの魂のとの融合をはかったといわれる。
「大正大震災火災」1923(大正12)年、絹本着色・一面。この年の9月1日、関東を激震が襲い、東京は焦土と化した。野間清治は、震災の被害状況を伝えようと緊急出版を決意し、表紙を大観に委嘱した。 この本の反響は大きく、ベストセラーに。出版業界の復旧をうながすきっかけになった。
「夜梅」1925年大正14)年、絹本墨画淡彩・一幅。墨を主体とする画面全体をぼかした調子で処理、薄暗闇に白梅がほのかに浮かんでいる。墨の濃淡渇潤で色彩以上の複雑さを具現した墨使いの名手、大観ならではの一作。
講談社の初代社長、野間清治の美術品収集は大正10年ころからはじまった。収集にあたり、大観に作品の制作を依頼した。大観は日本美術院の後輩たちにも斡旋し、交流を深めていった。その蓄積が「野間コレクション」に結実した。今回の作品群を見る限り決して彼らの作品は古びていないことは再確認した。
( 2010/05/01 )
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