「林忠彦写真展」にて 世相をえぐりとる名手
「林忠彦写真展」にて 写真家の眼は
新宿歴史博物館はちょっとユニークな博物館だ。地下の常設展では明治時代からの新宿出身の文学者などについて掘り起こして充実しているし、今回の企画も、学芸課の吉永麻美さんや後藤理加さんといった理解者があってのことだろう。
今回は特別展と銘打たれ、12月19日まで開かれている。林忠彦写真展「新宿・時代の貌ーカストリ時代・文士の時代」というもの。
戦後日本の写真史に多大な足跡を残した彼の芸術世界がコンパクトに集約されて展覧されている。
まず、「カストリ時代」は懐かしい作品群である。出世作がそのまま代表作になった。終戦を北京で迎えた林忠彦は軟禁生活から解放され、帰国したものの敗戦の街の姿に途方に暮れる。だが、不屈の精神で当時の苛烈な社会状況、街の情景をとらえ彼のカストリ時代は本格的な野のとなる。
カストリは「粕取り」であり、敗戦の混乱期に密造された粗悪な酒、下等な焼酎をカストリ焼酎と呼んだ。でもそれは、輝かしい日本の未来を夢見て復興に生きる人たちの、時代と生活哲学を象徴した言葉でもあった。
「生涯現役の写真家」を生きた林忠彦は「僕はレンズとかカメラとかいったメカニックなものではなく、相手の心のなかに溶けこむことではないかと思うのです。つまりシャッター以前の問題ではないでしょうか」という自身のことばにすべて集約されているように思われる。
代表作3作品を検証してみる。「犬を負う子供たち(参謀本部跡、三宅坂)」(昭和21年)は、焼け跡で遊ぶ2人の兄弟。坊主頭の少年2人。兄弟のように見える。
一人が荒縄でイヌを背中におぶっているのだ。そのイヌは右前足を肩にのせ特別嫌がっている風ではない。もう一人は腰を降ろし、腕組みをしてカメラの方を見ている。「自分の食い物もろくにないというときに、イヌに食べ物を分けてあげる」「そうした優しさを持った子どもたちがいる限り、日本の将来は大丈夫」と気を強くしたとのコメントがある。
ほほえましく、思わず噴き出したくなるような一枚である。
「日劇屋上の踊り子(有楽町)」(昭和22年)、は、踊子がひとり肢体を晒してビル屋上の狭い端っこで仰向けのまま眠っているようである。両腕を頭の上で組んで目を瞑っている。下は陸橋となり電車線路が複数走っている。画面の奥は市電が一台走る姿が映り、自転車やバイク、歩く人々も見える。
見るもはらはらする写真である。下手をして転落したらどうなるのかとはらはらした気持ちになる。この写真は決してやらせなどではない。一日中歩き回ってたまたま出会ったベストショットなのに違いない。それだけ東京中を駆けずり回っていたという、ご褒美の一枚に違いない。
「船上の母子(東京築地)」(昭和23年)という作品もいろいろ考えさせられる一枚である。当時、隅田川から浜離宮のあたりにかけて、たくさんのダルマ船が係留されていた。他力で引っ張ってもらって自分では動けない船のことをダルマ船といった。船内は暗く狭く2畳間ぐらいしかない。大人は中腰になりながら暮らすのである。
写真はそのダルマ船をアップでとらえたもので、母親が船内にいて、外を見ている。屋根の上にはきりりとした表情の男の子が座って母と同じ方向を見ている。ただそれだけの写真であるが、母子の情愛というものがひしひしと伝わってきて、忘れがたいいい写真である。
林忠彦は、終戦を北京で迎えた時27歳だった。途方に暮れる中で、売れっ子カメラマンへの階段を自らの足で駆け上がったのである。カストリ雑誌ブームで月に20〜30本の雑誌のグラビア、巻頭、表紙などの仕事をこなしていたという。小型カメラをぶらさげ、街をどれだけ歩いたであろうか。時代の世相をえぐりとる名手だったのは間違いない。
( 2010/01/15 )
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