没後25年「中原淳一展」を見て
没後25年「中原淳一展」を見て
愛する心、美しく生きること
『美しく生きる・中原淳一展・愛する心』を松屋銀座で見た。没後25周年記念である。美しい人、清らかな生活、愛する心など、共鳴する言葉がたくさん散りばめられていた展示会であった。とくに「美しさは清潔が不可欠」という言葉が印象的である。ほんの少しずつであっても『美しい人』に近づけたらと考えさせられたのだった。
美輪明宏、ペギー葉山、石井好子、花村えい子、芦田淳、山田邦子、平尾昌晃、江原啓之といった当代著名人の祝いの華が入口に並んでいた。
中原淳一は1913年香川県生まれ。幼少時より絵や造形に才能を示した。18歳の時、松屋銀座で個展を開催したというのだから早熟の天才といえる。それがきっかけで、一世を風靡する人気画家となる。終戦後は女性のための雑誌を相次いで創刊、女性誌の基礎をつくった。1983年、70歳で亡くなった。
その生涯を総括したとき、日本の戦前、戦後の混乱期、成長期を通じて、常に新しいものを世に送り続け、多彩な才能を発揮し続けた希有な存在だったことだ。絵を描き、文章を書き、デザインする。雑誌づくりのすべてに関わる。研ぎ澄まされた感性と溢れ出る創作エネルギーで信念に基づく雑誌を作り続けた。その根源には永遠のテーマである「美しく生きる」にあった。外見の美はもちろん、優しい心遣い、思いやり、弱者への愛、清潔な清清しさといった、人のあり方すべてに及んだ。華美ではなく工夫して日常の暮らしを美しく生きることによって、はじめて人生を楽しみ、しあわせに生きることができるという提案だったような気持がする。
その根底には自分を含めた人や物、身の回りのすべてに対して愛情を持つことの大切さを一貫して主張していたことであろう。それは言うは易くである。彼の生きた時代は、軍部が幅を効かす言論統制の時代でもあった。よほどの気概がなければ意を通すことはできない風潮の時代のさなかにあった。その意味では彼の作品はいまも精彩を放っているといってよいだろう。
中原の描く女性は何よりもりんとして強い目にある。見苦しいほど大きいと言っても良い。まゆ毛も特徴的だ。旧来の日本女性とは装いを異にしている。いまの年配者、むかしでいう女学生の頃の「あこがれ」だったのである。会場に足を運んだむかしの少女たちは、しばしほんのりと昔をなつかしく思い出したことだろう。
中原淳一は若くしてデビューした。会場では中原が心血を注いだ雑誌「それいゆ」や「ひまわり」の表紙が壁一面に貼られていた。それは当時の女性たちの憧れであり、夢そのものであったろう。少女たちはみな大きな瞳をしていて日本人離れしている。眉も大きいカーブを描いている。当時はこのような顔が好まれたのだろう。日本人には当時の日本女性には見果てぬ夢である。今ではこの種の顔とスタイルの女性はすでに珍しくはない。半世紀を経て欧米化は完了したのである。それはまるでタカラジェンヌが舞台から脱け出してきたようである。目立つことは目立つ。因縁めくが、淳一の奥さんは宝塚スターの芦原邦子だった。少し驚いたひともいるはずだ。
大正ロマンの旗手と呼ばれた叙情画家、竹久夢二の作品は今も東京や岡山、伊香保温泉など各地に展示館が点在している。夢二の高い芸術性が評価されてのことである。夢二の後継者と称される中原の仕事はまだ評価が定まってはいない。生誕百年をめざして再評価に力を注ぐべきであろう。 ( 2009/04/15 )
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