ヴィルヘルム・ハマースホイ展
ハンマースホイの画業 女性のうなじにみせられたわけ
ヴィルヘルム・ハンマースホイは北欧の空気を描いた孤高の画家といわれる。彼の再評価がたかまっている折り、パリ、ニューヨーク、ロンドンで人気を博し、その余波をかって大回顧展が日本の国立西洋美術館にやってきた。「静かなる詩情」と副題されたヴィルヘルム・ハンマースホイ展は見ごたえがあり、考えさせられもした。会場構成は6部門からなる。
第1部は「ある芸術家の誕生」。1880年代の作品群。「若い女性の肖像」は画家の妹アナを描いている。黒衣をまとった若い女性を右手からきちんと描き、すでにプロとしての仕上がりになっている。ただ人物は緻密に描かれ完成しているにもかかわらず、壁はとってつけたように単調である。また「イーダ・イルステズの肖像」はのちの画家の妻となる人。これも正面からきちんと描いている。ただ、不健康で陰気な色彩で描かれている理由はどうしたものか。すでに画家の本領ともいえる後姿の妻や妹を描くスタイルもなされている。
第2部は「建築と風景」。クレスチャンスボ宮殿の様々な季節が描かれている。が、夏、晩秋、雪と同じ構図なのにモノトーン基調でみな、同じに見える。人物がいないということもある。人がいない景色は寂しい。
第3部は「肖像画」。この中の白眉は「休息」(1905年、パリ、オルセー美術館)。椅子に腰を掛け、項を出している後姿の妻。ゆったりとくつろいだ姿勢に見えるが実はそうではない。長い時間同じ姿勢を維持するには難しい。体は机や椅子と同じように無生物の域に達している。お互いに強い信頼感があってのことだ。だからこそ、露わになった肌がまるで陶器のような光り輝くものとして息を呑む演出がなされている。北欧の女性は透き通るような肌の美しさで人を魅了する。その最もうつくしいところは、うなじだ。うなじに魅せられる男は多い。後からやさしくしのび寄ってがぶりと咬む。吸血鬼がそう。おおむかし、人間は後背位で性交をした。その野生での名残りでもあるのか。その好例がバンクーバー五輪を目指す浅田真央選手のそれである。髪をダウンにたらした彼女よりもアップにしてうなじを見せたときのそれはドキッとするほどセクシーである。
第4部は「人のいる室内」。ここでも「背を向けた若い女性のいる室内」(1904年頃、ラナス美術館)はこの作家の得意とするものが結晶のように完璧な形で示された傑作である。鑑賞者は壁に向かっている女性である。彼女は左腕に大きな皿を抱えている。左上壁には太い額縁の絵が掛かる。その下のスペースにパンチボウルが置かれている。そんなシンプルな画面に髪を頭の上にまとめて首をさらしている。それを盗み見る者にとっては至福の時間を約束してくれている。彼にとっては後姿も動かぬインテリアとして見たいのだ。
「室内、ストランゲーゼ30番地」(1901年、ハノーファー、ニーダーザクセン州博物館)も印象的な作品で心に残る。遠くに見える窓で女性が外を見ている。部屋は、白いテーブルクロスをかけた脇にピアノらしきもの。だが、あるべき4本の脚は二本しかない。椅子も不足している。家具調度はほとんどない。作家は引き算の美に目覚めたのである。彼が描こうとしたのは外から室内に届く光りをとらえようとしたのである。
最後の作品群は「誰もいない室内」になる。もはや人間は不用。「白い扉、あるいは開いた扉」(1905年、コペンハーゲン、デーヴイズ・コレクション)の目指したものは明確だ。そこには何も備品はない。床と開かれたままのドア、奥の方に細く外光が見えるだけ。扉の裏側を描いた画家の気迫がそこに吸い寄せられたというしかない。色と面に塗り固められた地味な扉、微妙な明暗のコントラスト、木の肌合いを求めて果敢に挑戦していたのだ。表と裏側のたたずまいの違いもある。どこまで大きく未完成で終わるか。画家が自分の絵をあれこれ説明しても意味はない。結局は作品そのものの力の有無が問題なのだ。その意味では画家は引いても引いても残る空気を描くことに狂奔していたのである。同時代のデンマーク美術仲間でもあるビーダ・イルステズやカール・ホルスーウの絵も出品され、そのタッチや描き方の流行にその時代の絵というものを感じることは出来る。どれも上手い。ただそれだけでは感動は伝わっては来ない。画家が何を描くべきなのか、その覚悟が大事なのである。
( 2009/01/15 )
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