白洲次郎、正子夫妻の真実は?
白洲次郎、正子夫妻の真実は? ブームの二人焦点があたったが
白洲次郎、正子夫妻の展示会が開かれている銀座・松屋に出かけた。会場を一回りしてみて、圧倒的に妻正子の印象が強い展示会だった。何しろ夫よりも八つ年下であり、夫が83歳で昭和60年、「葬式無用、戒名不用」の遺言を残して世をさった後も、13年間、旺盛な執筆活動を続けた。88歳でなくなり、今年は死後10年になる。
二人が50年間住んだ武相荘も会場内に再現されていたが、正子好みというしかないつくりになっていた。自伝に書いているように「若い頃の私は、実に生意気で、わがままで、野蕃で、とても人前に出せるような代物ではなかった。」と述べた後で「三ツ子の魂は、簡単に入れ替えがきかない」と書いている。
結婚するにも性格が出ている。「せめて二十五歳までは、結婚するのは無理だ、と自分にも言い聞かせ、人にもそういい聞かせていた」のである。そこに忽然と現れたのが白洲次郎であった。十八歳のひとめ惚れである。
次郎の印象を「特に美男というわけではないが、西洋人みたいな身ごなしと、180センチの長身に、その頃はやったラッパズボンをはいてバッサバッサと歩き廻っていたのが気に入ったのかも知れない」と述懐している。二人は忽ち意気投合して結婚へ突入する。
夫は貿易商の家に生まれ、妻は華族出の令嬢だった。二人とも恐慌のために留学先から日本に帰された若者たちであった。意気投合したのは当然かも知れない。
次郎は戦後の占領期、吉田茂元首相の右腕として辣腕を振るいGHQとの折衝にあたった。イギリス流のマナーを身につけたジェントルマンである。
他方、妻・正子は古美術に深い造詣を示し日本文化に対する鋭い眼差しを宿していた。性格も趣味も両極にあるふたりが仲のよい夫婦仲であったというのは不思議である。男女は原則として自分に似た相手に惹かれるものだ。同種交配というわけであるが、この夫婦はそのようには見えない。
歴史的に果たした役割から言えば、夫の業績はとても大きかった。ところが、身辺にあった歴史上の資料を生前に焼却してしまった。残念なことだがダンディーを貫いた男の姿を彷彿とさせる。遺品が少ないのももっともである。
反して妻は集めたものを捨てることをしないで抱え込んでしまう性質であった。長生きも加わって膨大な遺品が残ってしまう。
今回の展示を見に来ている人たちもほとんどが女性客で、お目当ては正子である。次郎のコーナーは刺身のつまの趣が強い。正子が次郎に一目惚れしたのは事実だろう。だが韋駄天夫人と命名された女性なのである。
彼女の情熱は間もなく他へ向かった。能への傾倒もそうだが、陶器や書物、そして自然へと向かった。年を経てからは西行法師の生き様を愛した。その裏には何か次郎との生活に満たされないものをあったのだろうか。
人はそうした夫婦の機敏に触れたがらないが、本当は水と油のように交わることのない自由気ままな生き方を譲ることのない夫婦だったのではないか。
次郎は政財界で、正子は文筆の世界でこの国に多大の足跡を残した。まったく違うふたりが、共に脚光を浴びてブームになっているのはうれしい偶然ではある。 ( 2008/10/01 )
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