ちあきなおみという女
伝説になった悲運の歌姫 ちあきなおみという女
ちあきなおみという歌手は今や伝説の人になろうとしている。 大和人のもののあわれを感じさせる歌声で人気を博した。末っ子の三恵子は、1947年9月17日、東京の上板橋に生まれた。61歳になる。
4歳の時からタップダンスを習い始め、キャンプ回りをして幼くして一家の稼ぎ頭だった。父親の仕事が興業師だったのである。小学校2年の時、両親が別居し、母と子供たちは辻堂に移り住む。姓も変わった。中学まで転々とし、新宿区大久保中学に入ってから芸能生活を再開した。そこで岡晴夫の付き人の吉田尚人と出会う。
譜面を渡すとすぐ覚える天才だった。美空ひばりの歌に「どこが上手いのですか」と言ったというから、大層な自信家だ。鈴木淳に「演歌を止めて白紙から」といわれ、やり直した。ハスキーでありながら語尾が揺れないのは天性の声の持ち主の証である。意志が強く余計なことを言わない寡黙な子だったという。
デビューしたものの、本人に満面の笑みはなかった。デビュー曲「雨に濡れた慕情」は1969年6月10日、21歳の時だ。人気が出たのは4曲目の「四つのお願い」で紅白初出場を果たしてからだ。以後8回連続出ている。71年2月、日劇でワンマンショーを開く。ところが、些細なことで恩師というべき鈴木淳と吉田尚人とモメゴトをおこした。
プロ歌手デビューで三年で邸宅を建てるほどのお金を稼いだ。はではでの顔の印象とは違い、酒タバコオシャレには興味をもたない女の子だった。車の中では口数少なくいつも下を向いていた。性格が控え目、一歩下がる女の子、それでいて不満は漏らさない。 1972年「喝采」でレコード大賞を受賞する。1974年10月22日には中野サンプラザで自叙伝歌「私はこうして生きてきました」を初披露する。「生まれは東京板橋で、幼い時から、母ひとり、父と言う名の、その人の、顔の形も、知りません」というフレーズがある。
75年6月1日、所属していた三芳プロと終止符を打つ。「男ができたから」とマスコミに流された。郷英次の事務所に入り、郷本人が専属マネージャーとなった。ニッカツ映画が好きだったせいもあって78年4月結婚、同時に芸能活動を休止した。「赤とんぼ」で11年ぶりに紅白出場。89年ひとりミュージカル「ビリー・ホリディ」の上演は今も語り草となっている。
90年、夫の郷が55歳の若さで肺ガン死した。ちあきは44歳だった。「もう歌わなくていいよ」が夫の最後の言葉だった。仲間のみんなが用意してくれた追悼会も欠席する。つまり芸能界を完全に去ったのだ。伝説だけが受け継がれる素地が出来上がった。
「人知れず消えてゆきたい」というのが身近な人への最後の言葉だった。ちあきは周囲の明らかな味方にさえ、入り込めない距離を置いていた。それは長い芸能生活の中で学習した、人との接し方だったようだ。誰でもそれまでの考え方を修正しなければならない時がある。「矢切の渡し」はすがれた声で情感を込めて歌わなければならない。その世界に取り込まれてしまったのであろうか。それは真実の歌手の真骨頂でもある。いかにも団塊の世代らしいと思う。 ( 2008/09/25 )
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