竹久夢二
駿府博物館の夢二
静岡駅近くに駿府博物館がある。地理に不案内な観光客は、駿府公園の中に目指す博物館があると信じ足を進めてしまう。城内に入れば確かに有料の資料館はある。が、そこは目指す場所ではない。タクシーを拾うと、「そういうお客様が多いです」。そんなわけでなんとか駿府博物館へ到着。なんのことはない、JR静岡駅北口から徒歩五分ほどの国道1号線沿いにある。
館名の「駿府」という静岡の旧名とした理由は、創設者が親しみと市民に広く開かれた博物館になることを願って名付けたものという。静岡新聞社・SBS静岡放送を創設した故大石光之助氏が基金を出し美術品も寄付された。建物も旧静岡新聞社社屋を用意し、昭和46年5月に開館した。収蔵品は1000点を超える。展示室は二階に入るとすぐに始まり、普通の箱型のスペースだ。簡素でわかりやすい。重厚壮大ではないが好感がもてる簡素な容れ物だ。出し物は「大正・昭和 美人画の系譜」と題して、夢二・華宵から清方・深水までの作品出品されていた。
哀愁を帯びた大きな瞳の細身の女性が、大衆の支持を得ていた時代。雑誌の表紙や口絵、挿し絵、絵葉書は大いに人気を博した。なかでも、竹久夢二は彷徨の人生ロマンと題して肉筆画十三点が出品されていた。夢二はテレビがない時代、出版物全盛期に雑誌の表紙、口絵、挿し絵、絵はがき、楽譜、本の装丁、デザインの分野で人気を博した。
夢二の作品は浮世絵の流れを色濃く残している。情緒に流れ古風な女をよくものとした。それに加え、西洋文化を上手に取り入れ、モダンで都会的なセンスを盛り込んで大正モダニズムを代表する顔となった。
夢二は明治十七年岡山県に生まれ十八歳で家出上京、二十二歳の時は少女雑誌にコマ絵を発表、一躍流行挿絵家となった。二十四で最初の結婚、長男ができたが二年後、協議離婚。有名な「宵待草」の原詩が発表されたのは二十九歳、明治の終わりの年、大正になり宵待草の三行詩が掲載される。三十一歳の時、十九歳の画学生と出会い逃避行、それは彼女の死をもって終わりを告げる。
三十六歳になった夢二の前に十七歳のモデルが現れた。傑作といわれる「黒船屋」「長崎十二景」「女十題」が制作された頃で、画家として一番充実した時期。が、この生活も破局を迎える。直接のきっかけは女小説家とのつき合いが世間に知れ渡り、以来、人気は下降線をたどる。
四十八歳で渡米、サンフランシスコ、ロサンゼルスで個展を開くが惨たんたる結果に絶望する。さらにハンブルクに着き、ヨーロッパ各地を転々とするが、失意のどん底で帰国、病魔に冒され、満五十を待たず、独り寂しく亡くなった。
今回の展示の中で、彷徨の詩人とも愛の旅人とも言われた夢二の自画像が目にとまった。風の中にひとりさ迷う自分、傘を小脇に抱え、下を向き、足取りは重そうだ。「時雨よ なぜさう急ぐのだ」に彼の心情が出ている。恋の切なさ、やるせなさ、儚さ、それらすべてを華奢なからだと憂いを含んだ大きな瞳の美人画に託して一時代を風靡した。彼が大衆に支持されたのは、イラストレーターとしての仕事だったことがわかる。グラフィックデザイナーの先駆者だった。簡素な駿府博物館にふさわしい作品群であつた。 ( 2008/09/01 )
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