赤塚不二夫を悼む
赤塚不二夫さん追悼 キライな生きものはない
今年を振り返ってみて、赤塚不二夫さんのことが気にかかった。おそ松くんというギャグマンガが人気を博した時、作者の赤塚不二夫は26歳だった。病気で入院しているにもかかわらず、最後までマンガと闘って亡くなった。
彼の体験談を聞いていると負けん気が強く、やんちゃな生き様が作品にも反映していることが伝わってくる。漫画の中の登場人物も身の回りのスケッチから得たものだ。
おフランス帰りのイヤミはせこくて間抜けのキャラクターなのになぜか憎めない。他の脇役も特異のキャラで社会現象となるまでの人気になった者も多い。天才バカボンなど最後はどちらがバカなのかわからないという気持ちにさせられる。
子ども時代、近在の悪ガキは一団を組んで農家の作物や果物を盗みに行く。お百姓さんが昼寝する隙を狙ってだ。「自然のものは頂きだよ」と言うのが流儀だ。
ガキ大将と決闘した子供の頃の体験が漫画の中でも活かされている。ニャロメも実在したネコからヒントを得たものだ。作者本人は猫だと思っていない。人間と同じ目線で接している。自分の体験、肉声からのマンガなのだ。
一杯入ってはじめて相手の顔が見れるというほどのはずかしがり屋だった。チビ太、ニャロメといったキャラクターも、誰も描いてないから描くことにチャレンジした。おそ松くんは6つ子で母親が子供を取り違えるほどの設定がおもしろい。
ギャグは刺身のつまみたいな扱われだった時代に、主役の座に躍り出た。満州からの引き上げといった経歴から苦労があったに違いない。大和郡山市の出身で、みんな一緒に仲良く遊ぼうという風土の中で少年時代を送った。
人生の転機となったのは街にあった貸本屋さんの存在だった。漫画家の道のりの原点だった。酒飲みながら遊ぶイタズラ心はギャグ漫画家としてのエピソードに溢れている。
手塚治虫のロストワールドに衝撃を受けた。赤塚の母親が「お前は天才だ」と言って鼓舞した。人に憎まれない性格だった手塚治虫から小説、演劇、音楽にしろ「一流の物を鑑賞しなさい」と言われ、それを守ったことが漫画家として大成した原点になっている。なのに高級な酒はキライだった。
晩年は、「目が見えなくても笑えるはずだ」と言って点字マンガにも挑戦した。
「キライな人はいない」これが生き方だった。マンガの中の登場人物をこよなく愛した。映画からも人間観察をし人間の感情の機微を学んだ。「年中考えているからアイデア涸れることはない」とも豪語した。まず描き始めることを信条とした。 他人は「バカになればなんでも言ってくれるのよ」というのもある。満州体験の悲惨な心を内に持っていた。それが行動力の原点だった。ギャグ漫画作家として稀代の一代で終わることになる。ギャグマンガは女性には受けないが、男どもにとっては永遠のマンガとなる。追悼は残念無念ではあるが、男の本懐、もって黙すべしである。
( 2008/12/15 )
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