たそがれ画家の面目 フリーズが主題のムンク展
ムンク展は、人間の魂の叫びを描いたとされる画家ムンクを、装飾プロジェクトという観点から見直し、その軌跡を探ろうとしたものである。上野の国立西洋美術館で開催中に足を運んだ。
ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンク[1863ー1944]は、1863年12月12日、ノルウェーに、軍医を父に第二子として生まれた。母親は5人の子供を残し結核で亡くなる。30歳の若さである。
画家の姉もまた結核のため15歳で亡くなった。ムンクには愛と死、不安と絶望を描く画家としての素地は埋め込まれていたといえる。
ただし、本人が亡くなるのは1944年、享年80歳、長生した画家と言えよう。
画家になる決心を固めたのは1880年、17歳の時。1892年、ベルリン芸術家協会に招待され、展示を行う。そこでいわゆる「ムンク事件」が起きた。55点の展示作品が、わずか一週間で閉会されたのだ。
この事件がベルリン分離派設立の契機となる。翌年、ベルリンでの個展で[叫び][マドンナ][吸血鬼][灰]などを「連作のための習作・愛」として展示する。誰もがよく知っているムンクの原イメージはここにある。
1902年、[生命のフリーズ]に制作の重点が移って行く。さらには舞台装飾、壁画制作へと広げてゆく。
今回は7つの装飾プロジェクトが、油彩、水彩、素描、刻、さらには構想のスケッチやデッサンを含む108点で構成紹介された。
「装飾画家」としてのムンクは、日本人にはほとんど馴染みのないイメージだ。彼は、個々の作品をひとつずつ独立した作品として鑑賞するのではなく、全体でひとつの作品となっているものとして見て欲しいと、考えたのだった。
それを理解する一番が「生命のフリーズ」である。
ムンクは言う。「画家の仕事は、建築家の仕事が終わったときに始まる。もはやイーゼル画は存在しない。装飾だけがある」。
当時装飾的であることは芸術作品の必要条件だった。ムンクに「装飾」のことを意識させたのはパリでの象徴主義者たちとのサークルとの交流、ノルウェーもまた装飾美術運動の中心地でもあった。
「フリーズ」とは、帯状の建築装飾を指す言葉であり、ムンクにとって重要なことは、フリーズとしての展示の仕方にあった。ただその機会を本当の意味で得ることは遂になかった。
装飾画家としてのムンクを理解するには、オスロまで足を運ぶ必要があるのではないだろうか。
画家がその晩年まで装飾プロジェクトにこだわったのはなぜであろうか。
ムンク作品は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパ各国で展開された装飾芸術をめぐる大きなうねりのなかに、位置づけて見るしかない。
最晩年に至るまで、「生命のフリーズ」を装飾プロジェクトとして発展させようとしたのは自身にとって大いなる喜びであったためだ。
「我」と言うものを強く意識する性癖から逃れることは出来なかった。作品に共通しているのはどの作品もメランコリックであること。無表情と無気味な静けさ。
たとえ生命の賛歌を謳い上げていても、はじけるような歓びは感じられない。時代の人も、たそがれ時の画家、思想家ということなのだろう。 ( 2007/11/15 )
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