15年ぶりのキスリング回顧展 優雅さと哀感の器用さの裏には
エコール・ド・パリ派として活躍したモイーズ・キスリング(1891−1953)の回顧展が茨城県近代美術館で開催された(7月20日まで、この後神奈川、福岡、東京、愛知と今年いっぱい各地で展覧される)。
日本では15年ぶりの回顧展となる本展では、スイスのプティ・パレ美術館のコレクションを中心に63点が紹介された。女性や花、風景をモチーフに、華麗で透明感あふれる色彩で描かれた作品が一堂に揃った。会場内はほとんど女性の姿ばかりである。
回顧展を催すに実にわかりやすい作家である。会場も彼の人生を4期に分けて紹介しており、わかりやすい。1891年、ポーランドに生まれた。19歳のときパリへ出て、モンマルトルとモンパルナスでモディリアーニらと交流、そして戦争へまでが第1章。
1915年から25年までモンパルナスの寵児として活躍する第2章。友人モディリアーニは1920年に病死。葬儀のお金はキスリングが支援したという。
第3章は1925〜1940年。フランスに帰化して34歳から49歳まで、南フランスとパリを往き来した。
一時病に陥るが50歳、1941年、アメリカへ渡り大いに歓迎される。そして55歳、1953年帰国するまでが第4章。61歳のとき、尿毒症が急変し死去。
キスリングの絵は見る者に優雅さと哀感を感じさせる。虹のような目を持つ女たちはとてもきれいな目だが、正面から見ようとはしない。ニーチェは「何かを美しいと思うのは、それを誤解したに過ぎない」と言った。
透明すぎて冷たい感じがするのは避けられない女たちだが、じっと見つめると、なんとも荘厳な気配に包まれ動悸が高まる。
華麗で透明感溢れる色彩こそキスリング得意とするところだった。広く豊かに存在する作品、だが美術史上の分類に収まらない芸術家だともいえる。彼の現実世界こそ情感溢れるものだったのである。
今回は4点の裸婦像が鑑賞できる。 1918 赤い長椅子に横たわる裸婦 1933 女優アルレッティの裸像 1937 赤い長椅子の裸婦 1949 赤毛の裸婦
いずれも官能的な作品ではあるが、過去の大作家の模倣、援用が感じられる。ただ、モンパルナスのキキもアルレッティも顔は本人に似ていない。
そのはずである。「アトリエの画家とモデル」(1938年)の作品では、キスリングはモデルをまったく見ていない。イーゼルもモデルから離れて置かれている。写実性ではなく芸術的な創造性を優先した。
キスリング自身「僕はいつも自分のモデル達に恋をしていた」と告白している。狂い、嫉妬もした。女優アルレッティが横たわる裸像と顔、その背景は実にちぐはぐだ。彼のアトリエにはいつもたくさんの友人がやってきた。2人の時間はない。それは辛い経験であったろう。彼は女性にもてなかったのである。
その点ではモディリアーニはすごい。女性の赤い肉体のアップだけで女性の深奥に迫る裸婦を残した。彼女らは画家に身をもたせていた。抱かれた女たちのほてりが絵から立ち上っていた。モディリアーニは若くして死んだが、天才だったわけである。
キスリングは器用すぎたし繊細すぎたし面倒見が良すぎた。天才になるには強固な冷たい資質を欠いていたのである。 ( 2007/08/01 )
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