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モディリアーニと妻ジャンヌの物語展,夫だけでよかった
「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」を渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムで開かれた(6月3日まで)。
画家とその妻ジャンヌの運命に翻弄された愛と悲劇を、作品を通して振り返る。モディリアーニによるポートレートや、ジャンヌ自身の作品など約200点を日本で初めて公開する、との触れ込みであるが、個人的にはモディリアーニの作品だけあればいいという感想を持った。
ふたりの運命よりも、モヂリアニ、モディリアニ、モディリアーニの三つの名前があることにこだわったのである。
昭和35年発行の現代美術(みすず書房)では「モヂリアニ」である。卵形の顔、長い首、円筒、眼をくりぬかれる。瞳孔のない眼。夢を見ているのか、哀しみに啜り泣く。形体は単純化されすべての肖像画は類似している。顔の表面ではなく裏側を描いたのだ。すべての絵に心理的不安が投影されている。画家は死の影に怯えていたのではないか。実際36歳で死んだ。肖像画しか描かなかったが、それも個性的だった。
首が長いのは明澄さを現した。裸婦が猥らなのはモデルとの交わりがあった、その肌は手で触られたものだった。過剰とも言える単純化された。技巧は何をあらわしたかったのか。描線のしなやかさ、やわらかさに生命のリズムを感じさせる。摩訶不思議な力、ぬかりなく個性が今も見るものの心をとらえる。
次いで、昭和36年発行の世界名画全集(平凡社)では「モディリアニ」になる。彼は、1884年イタリアのユダヤ人の名門に誕生、14歳で絵を描き始めた。肺結核静養のためナポリなどに滞在、古典美術に親しむ。22歳でパリに出た。
26歳、酒場で肖像をスケッチして生活。30歳のときイギリスの女流詩人と暮らす。作品は彫刻と絵画の表現を生かす形態と色彩の大胆な実験が成熟している( 末松正樹)。
33歳ジャンヌと暮らす。色彩と形態の精妙なバランスを保った作品を描いたが裸婦は売れない。34年、官能的な美しさと背後にある精神の暗示にみちた作品。35歳、にして批評家に称賛されるもののすでに健康は悪化しており、36歳1月24日死んだ。
22歳で故国イタリアをのがれ、パリの居留民となってから、14年後亡くなるまで、結核と貧窮のなか酒と麻薬に溺れ、絵をかき続けた生涯。独自のスタイル、調和と清澄さ、モンパルナスのボヘミアンは病室で故国への郷愁を抱き続けたという。天性の才能はパリで花開いた。生命への愛着、人間性への希求がそこにあった。
1917年初め、19歳のジャンヌ・エピュテルヌという娘と知り合い、作品は著しい変化する。素晴らしい素描家だったし休むことなくデッサンした。肖像画と裸婦に限られた。
妻は彼の死の翌日、朝の4時、彼女は両親の家の5階の窓から身を投げて即死したのは事実だけれど、それはまた別のはなしである。
彼は、三つの呼び方をされたが、昭和30年代にすでに評価は定まり、それを越える評者も出なかったといえる。
( 2007/05/15 )
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