幸せのありか
生き物は必ず死ぬが、死に方はいろいろである。それでもうらやましい臨終の仕方というものはあるに違いない。 妻は狂って幸せの国に行ったと考えることにした。理由を新型コロナのせいにしても詮ないことだ。丸ごと状況を受け入れるしかない。残された側は出来るだけ明るく過ごすのが何よりなことだと考える。いまや虚勢をはることもない。見栄や虚飾の生活は捨てよう。 そうは言っても私の心は揺れている。 一緒に死んだ方が良かったのかと今の世の中を憂え口ずさんでみるが、違う自分がすぐさま打ち消す。そんな気なぞないことは自分がよくわかっている。切腹や特攻隊の歴史を学んだが、遥か空の彼方に浮かぶ雲のようなものでしかない。忠臣蔵の侍や三島由紀夫の切腹死を賛美することなどできない。 おそらく日本人の多くは幸せを実感しながら生きていると考える。どうも隣国の中国人や北朝鮮人、韓国人になりたいと考える人は多くはないはずだ。 ただ生きてゆくのに壁がないわけではない。様々な壁がたはちはだかっている。こどもにだってわかるはずだ。彼らも「幸せだよ」と答えてくれるに違いない。でも半世紀以上連れ添った妻は異なる世界に行ってしまった。認知症と医者は言う。本当に幸せなのだろうか。 そうした思いで私の感情がゆれる時「一日365日」が幸せなんてないはずとおもい聞かせる。心塞ぐ日だってあるはず。人として当たり前のこと「それは何?」。長く生きるのも運が必要らしい。70過ぎてすでに亡くなった仲間たちもちらほらいる。彼らは思い出の中にいるだけで戻ってはこない。個人的な真実は他人の眼には見えないものだから。妻が亡くなったわけでもないし。 ( 2023/11/15 )
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